木曾義仲(源義仲)
平安時代末期の信濃国(長野県)の武将。久寿元年(1154)武蔵国(埼玉県)に生まれる。源頼朝・義経とは従兄弟にあたる。幼くして父を殺され、木曽の中原兼遠のもとで成長する。治承4年(1180)以仁王による平家追討の令旨を受け挙兵。翌年、平家側の越後の城軍を千曲川の横田河原で撃破し、寿永2年(1183)には、越中や加賀の武士とともに倶利伽羅峠で平家の大軍を一夜のうちに壊滅させた。その後、勢いに乗って北陸道を進軍し、平家を都落ちさせ無血入城を果たす。入京後は、朝日(旭)将軍とも讃えられ、寿永3年(1184)には征夷大将軍に任じられるが、頼朝が派遣した義経らの軍に敗れる。31歳で近江国(滋賀県)粟津ヶ原に散った悲劇の武将。
参考:木曽義仲の系図
巴御前
信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられており、常に義仲のそばにいて共に戦った女武者。その生涯は謎に包まれており、「平家物語」によれば「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」という美人で、「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」であったという。「源平盛衰記」には、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍の一隊の大将として活躍。近江国粟津ヶ原での義仲最期の戦いでは、味方が残り数騎となっても勇敢に戦い、義仲とともに死ぬことを願ったが、義仲に諭され泣く泣く落ち延びていったという。「源平盛衰記」によると、信濃に落ち延びた後、鎌倉に召し出され和田義盛の妻となったが、和田一族が滅ぼされた後には、倶利伽羅峠などでともに戦った石黒氏を頼って越中に住み、91歳で亡くなったと伝えられている。
葵御前
常に義仲のそばにいて共に戦った女武者。各地を転戦し足取りを残している。倶利伽羅峠の戦いに加わるが、討ち死にする。その生涯は謎に包まれている。
その他
中原兼遠
父を討たれ2歳で孤児となった木曾義仲(幼名・駒王丸)を引き取り、ひそかに養育した人物。「平家物語」や「源平盛衰記」の中では、平家に義仲を引き渡すよう命じられるが、従わなかった。わが子、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、巴を義仲のそばにつけ、義仲が平家追討の兵を挙げると、仏門に入って円光を名乗った。中原兼遠の屋敷と言われる場所は長野県木曽町新開にあり、墓所は木曽町日義の林昌寺にある。
樋口次郎兼光
中原兼遠の次男。義仲四天王の一人。義仲の挙兵時からつき従い、倶利伽羅峠の戦いにおいては搦め手を任され、重要な役割を果たす。義仲が粟津ヶ原で範頼・義経の軍勢に討ち取られ後、降伏し、その武勇をおしみ助命を願う声が多かったが、ゆるされず、斬首される。
今井四郎兼平
中原兼遠の四男。義仲の乳母子で、義仲四天王の一人。般若野の戦いで平家の先鋒を破り、その後の義仲進軍に弾みをつける。豪勇の武将として知られるが、義仲に対しては、常に思いやりといたわりの気持ちを持って接する。近江・粟津ヶ原で義仲が討たれた後、その死を知って壮絶な最期を遂げた。世阿弥の能に、近江を旅する僧の前に兼平の霊が現れるという「兼平」がある。
覚明
木曾義仲の祐筆。倶利伽羅峠の戦いにおいて、義仲が埴生八幡宮で戦勝祈願した際、覚明が祈願文をしたためたと「平家物語」「源平盛衰記」に記されている。また、覚明は比叡山に対して義仲軍に味方するよう牒状を送り、それが功を奏して平家の都落ちにつながったとも伝えられている。覚明にまつわる伝承は各地に残されているが、その生涯については謎に包まれている部分が多い。
(上記資料は「北日本新聞社刊:乱世を駆ける」より引用)